こんにちは、満福寺の住職と保育園の園長をしています。しゅうちゃんです。
今回の明日が大好きになれる言葉は
『雨ニモマケズ 風ニモマケズ』になります。
「雨ニモマケズ」の詩は六満保育園の初代園長であり、満福寺の老僧でもある、内海奐乘氏が宮澤賢治さんの教育理念に共感し、特にこの「雨ニモマケズ」には一番の思い入れを持っていました。
「六甲おろし」などの名曲を多く手掛けられた、古関裕而さんに作詞してもらった、六満こども園園歌にもこの「雨ニモマケズ」の詩が入っていたり、六満こども園の子ども達も普段のお集まりや運動会、お遊戯会の行事などで元気に暗唱できるくらいとても大切にしている詩になります。
六満こども園の保育理念は 「ゆたかな心とたくましい体」であり、まさに宮沢賢治さんの「雨ニモマケズ風ニモマケズ」の理念を大切にして毎日保育をしています。
『雨ニモマケズ』
「雨ニモマケズ」はもともとはカタカナと漢字で記載されています。今回は、全文をわかりやすいようにひらがなと漢字に変換したものを紹介します。
雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫な体を持ち
欲はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
1日に玄米4合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きしわかり
そして忘れず
野原の松の林のかげの
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子どもあれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいと言い
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろと言い
日照りの時は涙をながし
寒さの夏はオロオロ歩き
みんなにデクノボーと呼ばれ
ほめられもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしはなりたい
この「雨ニモマケズ」は宮澤賢治さんが結核になり、闘病中にメモ帳に書かれた、宮澤賢治さんの最後の詩になります。
宮澤賢治さんは「銀河鉄道の夜」や「風の又三郎」など数多くの名著を残されていますが、有名になったのは賢治さんが亡くなってからだそうです。
宮澤賢治はどんな人物なのか?
「雨ニモマケズ」の作者である宮澤賢治は、1896年(明治29年)に岩手県の稗貫郡花巻川口町(現・花巻市豊沢町)に生まれ、1933年(昭和8年)に37歳の若さで結核により亡くなりました。
質古着商の長男として生まれた宮澤賢治は、浄土真宗の信仰の中で育ちましたが、中学卒業後に法華経(日蓮宗)の熱心な信者となります。詩人や童話作家、教師、科学者、農業研究家、宗教家など複数の顔を持っていました。
宮澤賢治は現在では、信仰に基づく壮大な宇宙観、農業や自然に対する思い、人間愛などから成る独自の作風が、多くの人に評価されています。
しかし実は、生前に発行された著書は2冊だけで、当時は作品が認められることはほとんどありませんでした。 父との対立からの家出や愛する妹の死、自らの病との闘いなど、苦労の多い人生だったといわれています。
「雨ニモマケズ」のモデル
この「雨ニモマケズ」の詩は「雨ニモマケズ/風ニモマケズ」から始まり「サウイウモノニ/ワタシハナリタイ」で終わります。
この詩は、対句のような表現が全編にわたって用いられ、最後のセンテンスになるまで主語(私)が明かされない詩になっています。
謙虚で自己犠牲の精神を持った人に憧れた、宮澤賢治の「理想像」を綴ったものだといわれていたのですが、実はこの「雨ニモマケズ」にはモデルとなった人物がいるのだそうです。
その人の名は『斉藤宗次郎(さいとうそうじろう)』という人物です。
1887年、彼は宮澤賢治の故郷と同じ岩手県の花巻で、禅宗の寺の三男として生まれます。
宗次郎は若くして小学校の教師になるが、内村鑑三(キリスト教思想家/聖書学者)の影響を受けて聖書を読むようになり、洗礼を受けてクリスチャンとなります。
当時は、キリスト教は「ヤソ教」「国賊」と呼ばれて迫害を受けていました。
宗次郎は洗礼を受けた時から迫害を受けるようになり、石を投げられ、親にも勘当され、小学校の教師を辞めさせられてしまいます。迫害は日に日にエスカレートして、何度も家のガラスを割られたり、近所で火事が起きたときなど、嫌がらせで放水され、家を壊されたことがあったといいます。
そして…とうとう悲劇が起こります。
当時9歳だった彼の長女が「ヤソの子供!」と言われて腹を蹴られ、腹膜炎を起こして亡くなってしまうという考えられない悲劇が起ってしまいます。
耐え難い悲しみと苦しみの中で…彼は神様に祈った。
「御心(みこころ)がなりますように」と、これは「神様の恵み深い善き御心は、私たちの祈りがなくても、十全に実現します。 しかし、私たちはこの祈りにおいて、御心が私たちの間でも実現するように」と宗次郎は祈ったのです。
その後も、彼はくじけることなく神様を信じ、神の教えに従い続けました。
普通ならば迫害のない違う土地へ移るところを、その土地の人々に神様の愛を持って仕えることを選ぶことをした。宗次郎は牛乳配達と新聞配達のため一日40キロの配達の道のりを走りながら、迫害する人々にキリストを宣べ伝える活動を続けました。
10メートル走っては神様に祈り、10メートル歩いては神様に感謝を捧げたという。
子どもに会うとアメ玉を与え、仕事の合間には病気の人のお見舞いをし、励まし、祈り続けた。
雨の日も、風の日も、雪の日も休むことなく街の人達のために祈り、働き続けたという。周りから「でくのぼう」と言われながらも、愛と信仰を貫き通したのでした。
1926年、宗次郎は内村鑑三に招かれて花巻を去って東京へ引っ越すことになります。
花巻の地を離れる日、誰も見送りには来てくれないだろうと思って駅に行くと…そこには、町長をはじめ、町の有力者、学校の教師、生徒、神主、僧侶、一般人や物乞いにいたるまで、身動きがとれないほど見送りが集まったといいます。
その群衆の中に、若き日の宮澤賢治もいたのだそうです。
銀河鉄道の父
宮澤賢治のお父さんである「政次郎さん」を主人公にした映画である。『銀河鉄道の父』が昨年に公開されました。映画が公開される前に、門井慶喜(かどいよしのぶ)さんの著書である『銀河鉄道の父』を読ませていただきました。
本の内容を簡単に解説すると、
政次郎は質屋を営んでおり、裕福で何不自由のない生活を送っていたが、賢治はその家業を継ぐことを嫌がり、適当な理由をつけては金の無心をするような困った息子である賢治に対して、厳格な父親であろうと努めるが、そんな息子を見捨てられず、ついつい手を差しのべてしまう過保護な親であった。
しかし、「子どものやることは、叱るより、不問に付す方が心の燃料がいる」といった政次郎の言葉や、こちらの意見を一方的に押し付けるのではなく、「お前はどう思う」と相手の意見を聞くところなど、ただ甘やかすのではなく、賢治や家族のことを愛して、信じる気持ちが根底にあるのだと感じる場面が多くありました。
子育てとは花を育てるのと似ている部分が多くあるのだと私は思います。
種を植えるだけでは花を咲かせることはできません。綺麗な花をさかせる為には、水と太陽の力が必要になります。
そして、子育てというものは、
親が子どもに対して栄養のある食事を与え、政次郎のように子どもに対して自分にできる限りの支援や応援をしてあげることが「水を与えること」になり、どんなときでも、その子を愛し、信じ続けてあげることが「太陽の光」になるのだと私は思います
宮澤賢治の作品の世界観は自然と人間が対立しない調和がもたらされた世界であります。
「雨ニモマケズ」の中に「そういうものに私はなりたい」とありますが、「なる」ではなく「なりたい」となっています。
賢治は家業を手伝っても役に立たず、最愛の妹を結核で亡くし、何をしても上手くいかない苦しい時期が多くありました。
その中で賢治は「これでいいのだろうか」と悩みながらも自分を愛し信じてくれる存在がいることに気付けたからこそ、前を向いて進み続けられたのだと思います。
今でも「雨ニモマケズ」が世代を超えて愛され続けられているのは、賢治が政次郎やこれまでに出会ってきた多くの人を見て、自分には「なれない」かもしれないが、「父のような人になりたい」「人や自然に優しい人になりたい」という思いがこの「雨ニモマケズ」には詰まっているからだと思います。
この本を読んだ後に、今まで当たり前に見ていた「雨ニモマケズ」という詩が「大切なのは最初の一歩を踏み出すことだよ」「あなたを応援してくれている人は必ず存在するよ」と自分のことを応援してくれている詩のように感じられ、今まで以上に大切な詩の一つになりました。
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